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Wikipwdia、信憑性がないから禁止するの?

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こんにちは、コロナ休校期間延長し、文字通り手探りで、生徒に課題を出し続ける妖怪のようになっています。かなみです。

会ったことない生徒に遠隔で課題を出すってなんか嫌です…(笑)

 

 

 

実験などができず、生徒との対話ありきの授業ができない中で、本当にできることが限られています

 

その中で少しでもできることの可能性を広げようといろいろ模索しています。

 

こんな機会を逆手にとって調べ学習なんかを多く取り入れています

 

そこで沸々と湧き上がってきたのは、調べ学習に常に付きまとうWikipedia問題です。

 

誰でも書いたりできるから信ぴょう性がないとの理由で禁止している方も多いのではないのでしょうか?

 

結論から言うと、カジュアルな調べ学習ではWikipediaや知恵袋など含め、そういったソースであろうとも使っていいのではないかと思います

 

そこを踏み台にしてより深い調べ学習、信頼度の高い情報へのアクセスへと踏み込んでいくことのほうが大事なのではないでしょうか。

 

 

調べることへのハードルを上げていないか?

私たちは日常生活で本当に些細な疑問があったとき、知りたいことがある時、サクッと調べますよね。

 

Wikipediaも参考にすると思います。

 

ほかにも他人のレビューなんかもある程度信用してみています。買うものもそれで決めたりしますよね。

 

ご飯を作っているときはどこの誰かもわからない人が載せているレシピを参考にして作っていませんか?

 

調べるということは日常生活であれば全くハードルが高くないことなのに、勉強になると突然制約が厳しくされて、大仕事のようになってしまいます。

 

 

本来であれば知的好奇心を満たすために行っているはずなのに…

 

大仕事だからこそあまり数をこなせなくて、物事を調べるうえでのルーティー

例えば、疑問がある→予想を立てる→調べる→予想とのギャップを考える など

 

が体に染みつかないまま社会に出ることになります。

 

そうして、いかにもそれっぽいことをテレビや広告などで言われるとなんの疑問も持たずにスッと信用します。

 

これでめでたく自力で調べることもせずに、賢い人に搾取されてしまう、思考停止人間の出来上がりです。

 

なんであろうとも疑問を持って自分なりにいろいろ調べてみる、といった習慣を染み込ませないといけないと、思います。

 

例え、先生が授業でそうだといったことであっても、教科書に書いてあることでも、鵜呑みにして片っ端から覚えていく人を育てるのではなく、疑ってかかっていく人を育てるほうが大事なのではないでしょうか。

 

それをある程度強制力を持って行わせられるのが学校の強みかなと。

 

サクッと調べる、調べた結果が人によって違う、情報源はどちらのほうが正しそうか、などといった活動で身をもって情報源の選び方を身に着けるほうが大事だと思います。

 

いい学びの機会に出会うためにも、調べるということを何度も何度も繰り返すことが必要不可欠です。

 

そのために、調べ学習のハードルはなるべく低くする必要があると思います。

 

 

 

Wikipediaの信憑性?

何か全く知らない分野について新しく検索したときに大体のことで検索結果一位に表示されるのがWikipediaではないでしょうか?

 

ブログをやっていながらSEOなどにはあまり詳しくないですが、検索結果上位に出てくるものは、Google側でいろいろな審査基準を設けて様々な観点から信頼度の高い記事を上に、上に、出す仕組みになっています。

 

少なくとも人々から多く見られているページが検索結果上位であることは確かです。

 

 

多くの人に見られていればいるほど、「それ、違くない?」となる人に出会う確率も上がるわけで、書き換える人が出てくるかとは思いますし、書き換えられなくとも、そのページの信頼度が必然的に下がっていくと思います。

 

つまりなかなかアクセスしづらくなるということ…

簡単にアクセスできる≒ある程度信憑性がある情報

というのが今のネットのシステムです。

 

 

社会のシステムにまで話を広げれば、民主主義的には、より多くの人々が正しいと思っていればそれが正しいということになります(あまり詳しくないので、多分…)。

 

つまり検索上位に出てきて(多くの人に見られている)、誰でも書き換えられている情報はある程度の信用があるのではないでしょうか。

 

例えば、Twitterを例に考えても、同じ個人のつぶやきであっても多くの人にフォローされている人とそうでない人のつぶやきは信用度が違います。

フォロワー数がその人の発信する情報の信頼度と直結しているからではないでしょうか?

大きなメディアからの情報だから正しい、というのではなく、これからは、多くの人が見ていて、口出しできる情報ほど正しいのかもしれません。

 

 

 

知りたいことをブレさせない

情報の信ぴょう性よりも、何を知りたいのかということがなるべくクリアになっていることのほうがよほど大事かと思います。

 

料理の話で例えると、どうしてもキーマカレーが作りたかった時に、キーマカレーのレシピは個人が好き勝手に載せているものしか見つからなかったとします。

 

一方で、チキンカレーのレシピなら大手の食品メーカーが出しているしっかりしたレシピが見つかりました。

 

そこで、キーマカレーは諦めますか?多分どうしても食べたかったらキーマカレーにするし、やってみて微妙だったら自分なりに工夫を加えたりしていくんじゃないかと思います。

 

そうして得たキーマカレーのつくり方に関する知識は質が高く、最早、カレーのつくり方の基礎までもが身に着いているかもしれません。

 

 

この例での分かれ道は2つあったと思います。一つ目はどうしてもキーマカレーが食べた買ったこと

 

最初に「何となくカレーが食べたい」からスタートしていたら、抽象的すぎるがゆえに、キーマカレーでもチキンカレーでも何でもいい。

ということになります。なるべく焦点の狭い疑問を持つことで、調べるべきことがクリアになります。

 

知りたい情報と不要な情報を見極めることも容易になります。

 

なかなか知りたいことに出会えなければ執着も高まって、疑問に関する好奇心がぐっと高まった状態になり、深い学びに近づくのではないかと思います。

 

二つ目は信憑性が低いレシピにのっとって行動してみたこと。信憑性とかゴールややり方は、歩きながら考えろ、ということです。

 

もし間違った情報であればどこかでつじつまが合わないようなことが出てきます。

 

正解を簡単に得ることを数多く行うよりも、一度だけであっても一つの問いに対してトライ&エラーを繰り返してどんどん深い部分にたどりつくのがより質の高い学びの機会になることは体感的に理屈でなくてもわかります。

 

それらを生徒が行うために教員としてサポートできることは、

より多くの知識を提供することではなく(どう頑張ってもGoogleには勝てませんので)、疑問点の焦点をハッキリさせること

 

一度調べた結果での議論が弱い部分などをあぶりだして、次はそこを補強するように助言することだと思います。

 

調べ学習をしたくない生徒と、どんな内容であっても問いを探し出す作業との真剣勝負だなと思います(笑)。

 

 

 

予想を立てて調べる

予想と違ったり、意外だったり、感動したりしたことほど深く記憶に残りませんか?

 

どうしても知りたい!という欲求が大きいほど深く記憶に残ります。

研究結果でも数多く出ていますね。

 

疑問を持ったら機械的にすぐに調べるのではなく、いったん考えることは、記憶に残すために有効な手立てにもなります。

 

さらに、考える→調べるということを繰り返すことで、思考力を鍛えることにもなると思います。

 

教員がサポートできることとしては

予想がしっかりと、多角的にとらえられているか、論点がズレていないか、疑問と正対しているかなどを、客観的に判断していくことだと思います。

 

感覚的には科学というより小論文の採点のほうが近いのかもしれません。

 

 

 

科学のゴールってなんだったっけ?

学校で理科を勉強することのゴールが、学んだ人の中から科学者を生み、科学技術を発展させて社会に貢献することなのだとしたら、

答えのない問いを見つける力、どのような方法でそれが明らかにできるかを思考できる力が大事かと思います。

 

私自身、答えのない問いを見つけることが最近になってやっとできるようになってきました。持つ疑問、持つ疑問常に他の人がすでに調べつくしているから明確な答えがあったのです。つまり凡人ということです。

 

答えのない問いに出会って探求すること。

その過程で、違うであろう可能性を一つ一つ排除していくことでしか真実らしいことにたどり着くことができない

というのがそもそもの科学ではないでしょうか。なんかの本に書いてありました(笑)

 

だとすると、疑問に対する答えをどこから得たか、ということよりも、その疑問にはどれほどの価値があるのか(それは未知なのか?深い疑問なのか?)、ということや、

 

疑問を細かな部分に解体して一つ一つ考察する過程、などのほうが大事ではないでしょうか?

 

情報の信憑性をソースから判断し、信頼できるか否かを判断し、信頼できるものを鵜呑みにするのも、できるようになれば十分情報化社会では生きる力なのかもしれません。

 

ですが、情報の一つ一つの信憑性を科学的根拠をもって判断できる力のほうが汎用性があるのではないでしょうか?

 

実際に科学者も論文のデータを吟味するなどいろいろな視点から判断して、その論文を信用するか決めると思います。少なくとも私は、大学で教授などからそんな印象を受けました。

情報は発信源が有名だから評価されるのではなくて、丁寧で文句の付け所が少ないから評価されるのだと思います。

 

 

 

Wikipediaとかのツール、いい加減に毛嫌いやめませんか?

ここまでいろいろな視点から述べてきましたが、結局言いたいことは、

Wikipedia、学校の調べ学習で使ってもいいんじゃない?ってことです。

 

Wikipedia、に留まらず、極論Twitterであっても別にいいのではないかと思います。

無論、フォロワー数≒信頼度だとは思いますが…

 

フォーマルな調べものや、何か完成形にするときはなくすほうがいいかもしれませんが、最初から禁止にする必要はないと思います。

 

 

情報の信憑性は白か黒かはっきりされるものではなく、もっとグラデーションであると思うのです…。

 

だからこそ、Wikipediaなどの手軽なツールを頭ごなしに禁止して、調べることへのハードルを上げてしまうことのほうが、学びの質を低下させるリスクになるのではないかと思います。

 

情報源が信頼できるかどうか、それすらも議論に組み込む…そんな学びの場を作りたいと思います。

 

それでは!